ヨハ 19:30イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。
101番 主イエスのみ名こそ(新80番)カルバリの丘で地球の歴史上最高の事件、十字架事件が起きました。カルバリの丘ですべてを完成された契約を味わいさえすれば、驚くべき人生の変化を体験することになります。このときから運命とのろい、地獄の背景から抜け出して、天国の背景を味わう幸せな人生が始まります。私が必ず知らなければならないことは何でしょうか。
創造の前からの問題と人間の根本問題を解決する唯一の神様の方法があります。この問題は長い間続いている問題であり、結局、個人を滅亡状態に追い込みます。人間の力では絶対にこの問題は解決できず、人間自らは救いの状態に入ることはできません。それゆえ、旧約で約束されたキリストが来てくださいました。この事実を信じて適用するとき、人生が変化します。
世の中にも王、祭司、預言者は存在します。しかし、その人々は原罪の状態で生まれた人間なので、救い主になることはできません。しかし、霊が完全な神様が人間のからだを着てこの地に来てくださいました。まことの王としてサタンに勝ち、まことの祭司になってすべてののろいを解決してくださいました。まことの預言者になって神様に会う道を開いてくださいました。その方こそが、油そそがれたキリストとして来られたイエス様です。
キリストによるこの福音によって、私は神様がくださる身分と権威を受けるようになりました。この福音を「私の福音」として味わったパウロのように、私も福音で十分で完全な答えを味わうことができます。
契約の祈りただキリストを味わう証人になりますように。まことの答えを知って味わい、世の中を生かす証人になりますように。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
<2018年区域メッセージ>19課|2018.5.13
あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。それは人の言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるものであって、キリストによるものではありません。
聖書通読_Ⅰ列 2章「我執」の辞書的意味は
「自分中心の狭い考えに執着して
他の人の意見や立場を考慮せず
自分だけを前面に出すこと」です。
「独善」というのは
「自分一人だけが正しいと信じて行動すること」です。
このような辞書的意味で見れば、
「キリストだけが救い主」という主張は
一見、我執や独善のように見えます。
しかし、人間の本質的な問題が霊的問題であり
人間自らは解決できない問題であると分かるならば、
ただキリストという主張は
一見、独善や我執のように見えないでしょう。
人間の本質的な問題を人間自ら解決できるならば、
キリスト教は独善や我執かもしれません。
しかし、今日も霊的問題と精神問題で
苦しんでいる数多くの人々は、薬に頼ってみるのですが
それが十分な解決策になることはできません。
キリストを通さずに
人間の問題を解決しようとすること。
かえって霊的問題を分からない無知から出る
我執や独善ではないでしょうか。